( 平成28年11月24日 更新 )



[ 現在の防衛大学校全景 ] (防大ホームページから借用)






は じ め に

久里浜に開校されたばかりの保安大学校の校門を1人の坊主頭の少年(18歳の爺さん)がいっぱいの不安を抱いたまま入っていきました
終戦から未だわずかに8年半を経過したばかりの 人造米のご飯を主食とした国力の乏しい 昭和29年3月 のことでした

それは 久里浜にある [ペリー上陸記念碑] から1kmくらいしか離れていない処に在る警察予備隊の施設を間借りした 木造のみすぼらしい 宿舎 と 校舎 でした
私は 112小隊 に配属され、指導官は 横山登1等陸士 (大尉) でした

昭和29年4月13日、久里浜川を挟んだ向かいの 陸上警備隊通信学校の校庭で M-1ライフルを執銃しての入校式を無事に終えて最初に外出を許可されたのは 4/15の日曜日だったと思います

来年春に入校してくる弟分の3期生を小原台上で建設中の新校舎で初めての入校生、後輩の学生として受け入れることになっていたのです
入校時、親父が持たせてくれたカメラ(ミノルタ5)で写したその時の写真がアルバムに糊づけして残しておりました

このたび やっとスキャナーを更新して古く色あせた写真をデジタル化して整理すろことができましたので
『 セピア色の学舎 』 と題してホームページの1ページとして公開します

これら数枚の写真を見ているとあの [朝鮮戦争] の最中、武山の米海兵隊キャンプからかき集められたブルトーザーが猛烈な砂塵が巻き上げながら東京湾要塞の跡形が残る小原台を掘り返していた情景が昨日のように回想されます

米海兵隊がこれら重機を持ち寄って造成の加勢をしてくれたのは、後に空自パイロットとして活躍された1期生の才新基一さんら先輩有志数名の功績だったと伝え聞いております
才新さんは兎に角活動力に卓越された先輩でただ羨ましく羨望の眼で見つめるだけの方でした
現在ある緑豊かな小原台上の景観、威容の礎を築いたのは当時弱冠19歳そこそこの若き才新学生のお蔭に依るものだと云っても過言ではないのです


防衛大学校創設期の資料、特に小原台上に校舎が次々と建設されて行った写真は、当時を偲び懐かしむことができる1,2期生の人には観てみたいものではないかと思い手元に残っていた数少ない写真を整理してみました

セピア色になってしまったものばかりですが将来に残しておきたいこれら数枚の写真を紹介します


追記: [光陰矢の如し] 昭和33年3月13日に小原台を巣立ってから早や50年の歳月が経過してしまいました
   去る平成20年11月05日、同期生97名(/362名)が小原台上に集い、古き思い出に暫ししたる機会を得ました
   その時の様子は
      スライド062-B250 (http://oldeagle.web.fc2.com/slide063-B250.html)
   に纏めましたので観て下さい
   また、3学年の時 同室で共に汗を流した川野智弘君が想い出の写真を数葉を送ってくれましたので
   一緒に掲載させてもらいます  (2008,11,08)





[ 馬堀海岸、馬堀中学校を過ぎて小原台へ (本館屋上から) ]


[ 小原台への急な坂道を砂塵をあげながら上ってくるGMC ]


[ 建設中の小原台上から猿島を遠望 ]


[ 建設中の学生食堂(右)と調理室(左) ]


[ 調理室の内部 ]


[ 本館屋上から東京湾(猿島)を遠望 ]


[ 完成に向かって急ピッチで工事が進む学生舎4棟 (当初 5大隊学生舎はなかった) ]


[ 本館屋上から図書館、講堂、学生舎を遠望 ]


[ 武山駐屯地からボランティア支援のブルトーザー@ ]


[ 武山駐屯地からボランティア支援のブルトーザーA ]


[ 武山駐屯地からボランティア支援のブルトーザーB ]


[ 武山駐屯地からボランティア支援のブルトーザーC ]


[ 初代防衛庁長官 木村篤太郎氏が揮毫する [防衛大学校] の表札]
( 昭和29年7月1日 保安庁から防衛庁に、保安大学校から防衛大学校に改称 )


[ 防衛大学校久里浜北校舎の正門 ]


[ 防衛大学校久里浜南校舎の正門 ]


[ 米軍ファンシードリルの展示 (久里浜北校舎前で) ]


[ 竣工間もない昭和32年頃の小原台新校舎 ]
( 当時、自習室から東京湾を望むと戦時中に敷設された防潜網が眼下にはっきりと見えていた )


[ 学生食堂で昼食中の爺さん (3学年時) ]


[ 小原台の東部には戦時中の砲台の跡が各所に残っていた ]


[ 同期の川野智弘君と一緒に(3学年時) ]


[ 同期川野智弘君と一緒に(3学年時) ]


[ 3学年時の同室学生(3年2人、2年4人、1年2人)と自習室で ]


[ 4学年時の同室学生(3年2人、2年4人、1年2人)と自習室で ]


[ 3学年時の同室学生(3年2人、2年3人、1年2人)と自習室で ]


[ 富士山山麓訓練時の同期生(2学年時)と記念写真 ]


[ 小原台42中隊(3学年時)の集合記念写真(1〜4学年) ]


[ 波浪の高い走水でのカッター訓練 ]


[ 2期生航空要員の部隊実習 (浜松南基地 C-46) ]


[ 2期生航空要員のC-46体験搭乗 ]


[ 部隊実習中に F-86F前で ]


[ 大学受験申請用の写真 ]


[ 保安大学校入校直後の爺さん ]


- 以上 -







そしてあの日から50有余年が経過し
[爺] も75歳になりました  末はまだ永いでしょう


*****************************************

それから50有余年の歳月が、己の年輪と共に経過しました

卒業50周年記念の行事が平成20年11月に小原台上の母校で行われ、
その一環として初代校長槇智雄氏の偉勲を偲んで
槇の樹を本館前に1期生と並んで記念植樹しました
入校30周年の記念石碑と一緒にその謂われを綴ります

防衛大学校は今年58期生が新1年生として入校しました

記憶の1ページとしてフレッシュな学舎の勇姿と共に
追録のページとして記録しました
 [平成22年(2010),07,20]


[ 最近の防衛大学校の全景(空撮) -(Inetから借用) ]


卒業50周年記念行事(於:小原台)のスライドを観て下さい

  スライドで観て下さい




[ 防大本館と卒業50周年記念植樹の槇の樹と入校30周年記念の石碑 ]


[ 2期生の記念植樹 槇の樹 と 記念石碑 ]


[ 入校30周年記念の石碑 ]


[ 吉田元総理揮毫の『居於治不忘乱』の近影 ]


[ 入校30周年記念の刻印 ]







☆ 入校30周年記念石碑 『治に居て乱を忘れず』 に寄せて      防大2期 高岩利彦君


『治に居て乱を忘れず』は中国の易経の繋辞(けいじ)伝に載っている言葉で『君子は、安きに居て危を忘れず、存して亡を忘れず、治に居て乱を忘れず』の一部である。
君子たるもの、万一の場合を想定して、常日頃から戒心用意を怠らなければ、その身は安く、国家をも安泰に保つことが出来る。
長い間平和が続くと安全保障の問題に無関心になり、平和や安全の有り難さを忘れてしまう。
『治に居て乱を忘れず』は、そのことを戒める古くて新しい言葉である。


【独立国日本を目指して】

戦後、新憲法によって、日本は軍事力を持てない国になった。
日本有事の際は国連が対処するので、安心して経済復興に専念するようにと言うことだった。
わが国はアメリカの49番目の州とも言われ、外部からの脅威に対応することなく励んだ結果、急速に復興していった。
昭和25年、朝鮮戦争が勃発。
日本駐留の米軍が一部朝鮮半島に移駐し、その穴埋めに警察予備隊が生まれた。
朝鮮戦争は朝鮮半島で行われた戦争であったが、世界を二分する戦争でもあった。
朝鮮戦争による軍需景気もあって、著しい復興を遂げた日本に米国は期待するようになり、世界の軍事バランス上、日本がアメリカの一翼を担う必要性が生じてきた。
時の総理大臣吉田茂は、日本が再び独立国家となって、先進諸国と肩を並べるには、この機会を生かすしかないと日本の将来像を描いた。
そして、警察予備隊は保安隊となり、保安大学校が誕生し、ここに独立国日本の骨格が形造られた。
昭和29年4月、全国津々浦々から集まったわれわれ2期生は、保安大学校入校の動機について、誰も語ることはなかったが、まさに千差万別、百人百様であった。
それが4年後、良くも悪くも「生みの親 吉田茂」を信じ、わが国の進むべき道に幸多かれと、この道で踏ん張る決意をして巣立った。


【治に居て乱を忘れず】

今年の春(2010) に出版された村上春樹著「1Q84」がベストセラーになった。
一体、1984年に何があったのか。
われわれ2期生にとっての1984年(昭和59年)は入校30周年を迎えるにあたり一抹の不安を感じていた頃であった。
それは、これからの10年間でほとんどの2期生が現役を離れることになり、その後の日本の安全保障の先行きが読めないからであった。
2期生会は入校30周年の記念事業を実施することになり、一案として防大体育館に大型の時計を寄付したいと在籍者に協力を求めた。
これを受けた同期で防衛大学校教授の北野昌則君と郷原一保君は検討に入った。  数年後には止まってしまった時計、時間の合っていない時計、誰からも振り向かれない時計が想像され、管理にも問題がある。
そこで、「末永く記念になり、防大創設時代の卒業生に相応しい、歴史的に価値あるもの」をと考えた結果、防衛大学校「生みの親」である吉田茂氏の筆による 『居於治不忘乱』 を刻んだ石碑をと云うことになった。
吉田茂氏のこの色紙は海上1期生のH氏から借り受けて拡大コピーし、業者に依頼して銘板とした。
そもそもこの色紙の存在は昭和32年の1期生卒業前に遡る。
1期生が卒業を前に卒業アルバムの編集に際し、資金調達の経緯から吉田茂邸を訪問した。
この時に 『居於治不忘乱』 の色紙とともに卒業アルバムの補助として金一封を賜ったと聞いている。
平間氏は当時卒業アルバム作成の編集長であった。
1期生を送り出すにあたって、吉田氏には複雑な思いがあったに違いない。
というのは、未だ戦力として認知されていない自衛隊に1期生を送り出すには忍びないとの思いがあったに違いないからである。
そして、この色紙を使わせて頂くには吉田氏にお断りしなければと、郷原君が東京渋谷の松濤町にある[能楽堂]近くの吉田邸を訪れ、吉田茂氏(昭和42年没) の三女和子氏(麻生太郎氏のお母さん) にお会いし快諾を得た。
石は、北野君と郷原君が休日を費やしてマイカーで三浦半島中探し回り、最終的に北野君が技術支援していた建設機械関係の会社から譲り受けることが出来た。
石の裏側は
   『入校三十周年記念 一九八四年八月建之 防衛大学校二期生一同』
と刻まれた。
碑の建立にあたっては当然1期生の先輩諸兄に了解を得ておく必要があると思っていたが、北野君と郷原君が土田国保学校長に相談に伺ったところ「1期生には玄関先の右側を空けておくから大丈夫」とのご決断を得た。
このようにして、久里浜の仮校舎を経験した1・2期生の記念碑の位置は決定された。
やがてトラックで運ぶことの出来る重さの石を見付けだし、これに「居於治不忘乱」と刻み込まれわれわれ2期生にとって動かすことの出来ない重いものに変わったのである。
更に4年後の卒業30周年には「母校のためになること」「会員の生涯の記念品」を柱に検討し、(財)防衛大学校学術・教育振興会に200万円を寄付することを事業の第一にあげた。
同会は、防衛大学校の教育研究振興のために土田校長が在任当時設立したもので、北野君が理工学研究科(大学院)の委員長として設立に携わっていた。
この基金はその後、母校の発展に寄与し現在も受け継がれている。
次に、この頃われわれの子供たちが適齢期を迎えるのも間近であろうと、晴れ舞台でも通用するネクタイピンとカフスボタンのセットを記念品としてつくることになった。
黒の原石に金色の縁を取り、校章を入れた上品なセットが出来上がり、年末の祝賀会までに送付を完了した。
寄付金は、元校長の土田振興会会長を祝賀会に招請し冒頭に同期会の高畑会長から直接贈呈した。
このようにして、石碑、基金、記念品の3点セットの事業は実行されたのです。
今では、石碑のそばに2期生卒業50周年記念に 『槇の樹』 が植樹され、吉田総理の 『記念石碑』 と共に並んで 防衛大学校の歴史をつぶさに見守ってくれるかのように雅趣に富んだ佇まいを見せている。

最近、国際政治の舞台で経済力が大きい20ヶ国(G20) が経済問題解決策を話し合う会議を開いている。
わが国は、20ヶ国の内の先進8ヶ国(G8) のグループにも属している。
今や、苦難の道を乗り越えた独立国日本は、世界をリードするグループに仲間入りし、世界平和に向かって役割を果たす立場にある。
その世界の信頼を得た独立国日本を支えているのは、他でもない実力集団自衛隊なのである。
世界は実力集団として自衛隊を認知し、日本を信頼に値する国と認めている。
信頼を得る迄には50年以上もの長い期間を要した。
槇校長は昭和33年の2期生卒業式における式辞で、
「人気と大切な仕事に従事することとは全く別のことであります」
「拍手が迎える舞台を夢見るな」
「諸君の仕事は大切で重い任務なのだ」
と述べ、われわれの不安を取り除こうとされた。
槇校長は、われわれを送り出す時、日本の進路を決定づける2年後の安保改定時の事態(60年安保)を予測され、任務の重大さを強調、懇切丁寧に諭されたのである。
科学技術の発達に伴い、国際関係も日に日に変化する中で、あらゆる分野で世界をリードする実力を有するわが国が、世界のリーダー国を自認するならば、先進国、発展途上国、未だ国家の体をなしていない地域をも含めた「世界平和」を視野に入れたリーダーシップを発揮する覚悟が必要である。
現実は誰も正解を出しえない長くて遠い道のりであるとはいえ、備えを怠るわけにはいかない。
防衛大学校生みの親、吉田茂元総理は1期生に託した 『治に居て乱を忘れず』 の思いで、今も独立国日本の行く末を見守っているに違いない。(H22,7,10)



☆ 次は、吉田元総理に関する1期生の「回想記述」の一部を抜萃したものです


『 吉田総理から卒業して行く防大1期生に与えられた言葉 』

「独立国の国民として国の独立程大事なものはなく、 この独立を守る事こそ国民としての名誉であり、 誇りであり、 この誇りが愛国心の基礎をなすものである。」
国民に独立を愛し、 独立を守る決心なくんばその国の存在はあり得ない。
この決心が一国の興隆繁栄を来すのである。
第一次世界大戦のはじめ、 パリーがドイツ軍に正に占領せられんとする時、 首相のクレマンソーは国民に告げて日く、「パリーの外で守り、 パリーの内で守り、 又 パリーの外において守るべし」と。
仏国民にもこの決心ありたるが故に、 破竹の勢ひを以て攻め来たりたるドイツ軍を遂にパリーの外に退け得たのである。
第二次世界大戦おいて、英国軍が仏白国境に破れて、 ダンケルクより30万余の敗残兵僅かの身を以て英国本国に引揚げ、武器、 弾薬、 悉く大陸に遺棄し、 国内には国を守る何等の兵備なく、 ドイツ軍の英国侵入は時の問題と思われた時、チャーチルは議会にて演説して日く、 「英国内において敵を防ぎ、 英国外においてこれと戦い、遠くカナダに退いてドイツ軍と戦う。」 と言った。
英国々民の戦闘意識を最も明白なる言葉を以つて言ひ表はしたものである。
クレマンソー及びチャーチルのこの決心がパリーを守り、 英国を守り得たのである。
然しながら、 兵器は凶器である。  これを用ふるは苟もすべきではない。
又、 これを用ふるにおいてはこれを止むる用意がなければならない。
所謂、 武なる文字は、 矛を止むると書くのである。
日露戦争の時、児玉参謀総長は、「奉天会戦を以て日露戦争を終わるべき時なり。」 と大本営に進言して兵を収めて日露戦役の功を全うした。
この遠謀深慮ありてこそ武将と言うべく、 然るに第二次世界大戦における我が軍はその勇戦善戦、 日露戦争当時に比べて優るとも劣ることなかりしにも拘らず、 進むを知って退くを知らず、遠くブーゲンビル、 ラバウル まで出進して徒に大兵を孤島に集中暴露して、 日本本土との連絡の用意なく米軍のために我が艦船、 飛行機等の皆滅せらるるや、 遂に本国との連絡を絶たれて、大兵空しく南洋海上の孤島に置去りにされて全敗、 遂に南方作戦は頓挫した。
歴史の示すところは、 以って将来の戒めとすべく、 兵を用いて兵をとどむるの用意なくんば、善謀善戦も何の益するところなし。
兵を学ぶ諸君、 常に茲に心を致されんことを望む。
「私はいつも思うのであるが、 軍人が戦争の専門家に偏することは、 戦争そのものには或は強くなるかも知れないが、一般政治や国際外交の常識に欠けるところが生じ、 外交を誤り、 国を誤ることになる。
大東亜戦争などは誠によい例である。
総じて軍人が政治を支配することを防ぐことは、各国とも大きな内政上の問題である。
一方また軍人自身もその分を弁えて政治に深入りしないようにすることが特に肝要であって、それには広い視野と豊かな常識とが必要である。
英国などでは、 貴族や富豪階級の子弟が、軍人軍職にあることを名誉と考え、 生活または職業のためではなく真に公職に奉ずる考えから、高い教養を身につけて軍人を志するものが多く、これらは内外に亘る常識を備えており、伝統的にも軍人が政治に関与し、 または関与してもらって出世の手段とするを潔しとしない風がある。
「さすがは英国だ。」 とかねてから思っていた私は、 特に大東亜戦争の苦い経験に鑑み、警察予備隊ができると同時にこの軍隊に代わる新しい部隊についてその幹部養成の問題に気をつけた。
そして特にその常識的教養の面に重きを置いて行きたいと考え、 且つそのように努力した。
今後とも防衛大学校の現状に満足することなく、ますます内容の充実向上をはかり、単に技術的のみならず、 教養的に自衛隊の質を高めてゆく努力を怠らないよう、局に当たるものにお願いしたい次第である」






☆ 卒業50周年記念植樹 『槇の樹』 について

平成20年(2008)11月5日、小原台上の母校で卒業50周年記念の同総会が開催され、362名の卒業生(うち70名が故人)の陸海空同期生のうち92名が出席しました  卒業以来多分2度目の訪問だと思います  なんともあやふやな表現ですが同総会か何かの機会にこれまで1度、小原台を訪問したような薄い記憶があるのですがその真実性があやふやなのです  こうありたいと願う願望がつのって現実体験らしい記憶になってしまったのかも知れません

いずれにしても昭和33年(1958) 3月に卒業以来初めて陸海空の同期生が母校に集い一緒に酒が飲める会合に参加したのは初めての事です
その会合の席で卒業50周年の記念事業として初代校長槇智雄氏の名前から [槇の樹] を本館前に向かって右側に植樹することになりました
1期生は向かって左側に同じく槇の樹を記念植樹することになり写真のような素晴らしい大木の槇の樹を左右に植樹されました







☆ [防大第64回開校祭]の様子    平成28年11月20日

     同期生の小高長利君から同報されたメールを転載させて頂きます

     当日は、時の防衛大臣 稲田朋美氏 がご臨席され
      棒倒し協議の様子を見学して行かれたとのことです

     卒業して母校を後にしてからもう60年近くが経過し ・・・
      『光陰矢のごとし』を実感します

     送って頂いた [スライド] のURLアドレスは 下記の通りです
       開いて 母校の最新の様子 をご鑑賞下さい

       http://www.geocities.jp/kodakefilm/kaikousai-64.htm










- 以上 -







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