(平成27年11月16日 更新)
[BGM:母校逍遙歌]



  [ F-15J と 爺さん ]
(80歳)

[老後の棲居 (29/33 階)]
 
(35°18 08''N  136°09' 00''E)
[クリックすると宇宙からの眺めが見えます]
[Google Earth]






略 歴


昭和10(1935)年11月 16 日 山口県 宇部市 で誕生
(親父竹次:50歳 お袋マツ:42歳)

昭和16年12月8日(6歳) パールハーバー攻撃で大東亜戦争が勃発

昭和17年4月 宇部市立 見初国民小学校に 入学


[宇部大空襲]
昭和20年7月2日の 深夜0時過ぎから
ティニアン島(マリアナ諸島) の米軍基地を飛び立った
戦略爆撃機 B29 (米第313航空団) の大編隊によって
焼夷弾 (E-46型集束焼夷弾) のじゅうたん爆撃を受けて
爺が生まれ育った石炭の街 / 宇部の大部分が
一夜にして 焼け野原 になってしまったのです


2人の兄は支那とボルネオに出征従軍中で不在、
両親(59歳と51歳) と 自分(9歳)の3人で銃後の留守を守っておりました
幸いにも自宅を焼失することもなく、 夜明けを迎えることができました


恐怖に逃げまどう群衆のなかで
親父・竹次 が示したその夜の勇敢な行動は今も鮮明な記憶として残り、
私が子孫に誇れる今は亡き親父の懐かしい貴重な想い出です





残念なことは この空襲で歴史ある母校・見初小学校の
あの足洗い場や 渡り廊下など 記憶に残る数々の施設をもつ重厚な木造2階建て校舎は
セメントの土台と 生徒たちが教室に残していた文鎮などが 鉄くずとして残しただけで
一夜にして灰燼の広場にされてしまったことです

校庭の北隅に位置していた[奉安殿]や[二宮尊徳の銅像]なども忘れられない思い出の一つです
その日からしばらくの間は防空警報の合間をぬって焼け跡の後片づけに登校し、帰りにコッペパン1個を貰ってくる日が続きました


その後も連日、警戒警報、空襲警報のサイレンにおびえながら、不意に飛来する敵機の機銃掃射も受けながら
担任の先生に引率されて焼け跡の後片付けをしたり、軍馬の餌になる草をアゲ(郊外)に刈りに行ったりして
教室で勉強したり、校庭を走り回ったりする 場所も 時間もない 無為の日々を毎日過ごしておりました


昭和20年7月31日(9歳) 朝 「警戒警報」 発令の合間をぬって 母・マツ に連れられ
国鉄宇部岬駅から宇部線、山口線、三江線と乗り継いで 夕方山の中の因原駅に着き
そこから約7km 川沿いの田舎道を 大きな荷物を背負い、母(51歳)と2人で
途中 母の話す「断魚渓」 の話を聞きながらとぼとぼと歩いて 辺りが真っ暗になった頃やっと
道沿いに建つ叔父・五市さん、叔母(母の妹)・タケさんの家 『新出屋』 に到着しました


そこは
島根県 邑智郡 井原村 (現在の 矢上町井原) と云う
米軍の空襲からは完全に隔絶した深い緑と清流井原川に囲まれた
人情の厚い自給自足ができる山村でした

今は亡き叔父さん、叔母さんの 素朴で深淵の愛情に支えられながら
丸3年間の 疎開生活は終戦詔勅2週前の 7月31日 の晩から始まったのです


[新出屋]家代々の遺影、燕。の[新出屋]の姿(納屋は解体、手前の路を上ると天蔵寺)
(平成18年8月撮影)

[井原村の3D写真]

自然を愛し、自然と共存したいと云う強い私の性格は
土と共に過ごした この少年期の疎開生活 が礎になっことは間違いありません


疎開先の生活にもいまだ慣れない8月6日の朝、南方 約50km に位置する広島市に
世界初の「 ピカドン(原子爆弾)」が投下されたあの時のキラリと光った閃光が
四方を山に囲まれた井原に立つ少年の私の目にも山を越えて入ってきたのが
今も記憶の片隅にかすかに残っております

そして

ギラギラと暑い日差しのなか 昭和20年8月15日の正午、
ラジヲから流れてきた初めて聞く 昭和天皇の肉声

「・・・耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで・・・」
「昭和天皇の終戦の詔勅」

敏治義兄さん(残念ながら平成17年末77歳で若くして死去)と井原の川へ魚とりに行く途中
村の 診療所前で 十数人のおじさん、おばさん達の間にはさまれて
聞いたあの瞬間は 今も 鮮明な記憶 として残っております

『ためになる言葉』 の 「危機」 の章に 「終戦の詔勅」 全文をを紹介 )


昭和20年8月 (村立井原小学校4年生)の2学期から
昭和23年8月 (村立井原中学校1年生)の夏休みまでの丸3年間
終戦を迎えた後も そのまま 井原で過ごし、農村の生活を学ぶことができ、
私のその後の人生に 数知れない知識をのこしてくれました


このようにして 山村の [島根県邑智郡井原村] は
生涯忘れられない、そして自分が生れ、多くの年月を過ごした宇部市 以上にも思える
私の 第二の故郷なのです


昭和23年7月 島根県の井原から
両親と戦地から無事に復員した兄達の住む生まれ郷里 宇部市に帰り、
宇部市立神原中学校に 編入学しました

そして、昭和26年3月 市立 神原中学校を 卒業

昭和29年3月 県立 宇部高等学校を 卒業


昭和29年4月 保安大学校(久里浜) に 2期生400人の1人として入校しました


[ 50年前の防衛大学校 ]


そして、昭和33年3月 防衛大学校 (小原台) を 卒業し、航空自衛隊(JASDF) に入隊、
ジェット・パイロット への道を 歩んでいきました



[ JASDF 時代 ]

奈良 ,防府 ,小月 ,宇都宮 ,築城 の各地で
ジェット・パイロット への 教育・訓練 を受け、
昭和35年5月 憧れの
Wing Mark を取得しました


昭和44年10月に 割愛により 航空自衛隊を退職するまでの 約11年間
浜松、松島、千歳、岐阜 の各基地で 実戦部隊 ジェット戦闘機パイロット として勤務し


対領空侵犯措置(アラート待機) の実任務
及び 開発試験飛行、領収試験飛行などに従事し、


この間 航空自衛隊で

T-34,T-6,T-33,F-86F,F-104J 等の機種を操縦しました



[ MHI 時代 ]

昭和44年10月 JASDF を 3等空佐で割愛・退職し、
試験飛行操縦士 として 三菱重工(名航小牧南工場)に入社


そして
[爺] は F-15J 国産初号機 (JQ8803) の国内初飛行を担当・実施し、
日本国籍のF-15J・イーグル(Eagle) が、日本人により、日本の領空を
初めての飛行することに成功したのです  (昭和56年8月26日 爺が45歳)



F-15J JQ8803号機
S56年(1981)8月26日 [爺]が初飛行した JQ8803号機が
三菱重工小牧南工場で3回目のオーバーホールを終え
部隊パイロットの操縦で名古屋空港から搬出されて行く雄姿です:(1999春)



平成6年3月末 58歳で 正規の定年 を迎え、
その後 名航顧問 として 63歳まで5年間 勤務しました


平成8年8月末
私の人生の全てであった 38年間 に亘る
ジェット戦闘機パイロットとしての飛行任務を 全て終了しました


三菱重工(株)名航に於いては
MU-2,MU-300,F-86F,F-104J,F-4EJ,F-15J
航空自衛隊で運用されている 全てのジェット戦闘機の 試験飛行を 実施してきました



この間、何度か危険な状況に 遭遇しました
その都度、神仏のご加護 と 両親、家族そして周囲の人々のお陰で
一度の事故も起こすことなく 最後の日を迎えられたことは
私の一生の誇りであり、心から感謝しております



平成11(1999)年3月末 三菱重工(株)を 完全退職し、
それからは 「日常休暇」 の身分となって今日に 至っております


 健介君(2002.04.21生→3歳)          一皓君(1995.01.01生→小5) 04/08/25 御嶽山登山         =孫たちの元気な成長にはしゃぐ爺 (70歳)          陸人君(1997.02.11生→小3) 05/08/28 御嶽山登山         暁久君(2003.12.09生→2歳)

爺は 4人の孫たちと 至極の刻 を過ごしています



[制限公開]



「 孫たち 全員集合 」
下呂温泉 「水明館」 での4人の孫たち

(爺の古希祝いで  2005/11/27)



[ 古希の祝いに孫たちから贈られた似顔絵 ]
一皓君(小5)の絵 陸人君(小3)の絵

健介君(3歳)の絵 暁久君(1歳)の絵


平成12年春 四国霊場八十八ヶ所 を
独り、通しで歩いて32日で無事 結願しました
それは自分への限りない挑戦と云う素晴らしい体験でした




平成14年春 再び 四国八十八ヶ所 を
独り通し歩き に挑戦し、36日で結願しました
その途上は多くの方々との素晴らしい出会いの連続でした




平成18年春 古希を記念して
四国霊場百八寺 を独り通しで歩いてきました
その途中 予期しない事件にも遭遇しました






[制限公開]


  爺さんのブログ 【爺のBlog】です      新しいブログ [独楽の旅] です





国破れ早くも60年の歳月が経過しました

平和ボケの 自分と日本国民 に警鐘を与えるため
そして憎むべき無差別テロへの怒りの気持ちと
無念にも犠牲となられた 多くの御霊に対し
哀悼の真心と安らかなご冥福を祈りつつ
この写真を続けて掲示します。
合 掌

A second plane, United Airlines Flight 175,crashes into the World
Trade Center's south tower, causing a massive explosion.
(September 11, 2001 -- 9:03 a.m. EDT fromCNN)
[ 日本時間 : 平成 13(2001)年 09月 11日 22:03 ]


[飛 行 実 績]

昭和33年(1958) 11月 初飛行 〜 平成08年(1996)03月 最終飛行
操縦した航空機 飛行時間(時間:分)
T−34 ( P・T ) 94 :20
T−6G ( P・T ) 135 :05
C−172 ( P・T ) 17 :20
MU−2 ( P・U ) 923 :10
MU−300 ( J・U ) 286 :30
T−1 ( J・T ) 2 :15
T−33 ( J・T ) 917 :20
T−2 ( J・T ) 359 :25
F−86F ( J・F ) 1 ,278 :35
F−104J ( J・F ) 1 ,817 :45
F−1 ( J・F ) 115 :05
F−4EJ ( J・F ) 1 ,574 :10
F−15J ( J・F ) 620 :55
総 飛 行 時 間_ 8 ,142 :00_

= ( ) 内の説明 =
: プロペラ機 、   : ジェット機
: 戦闘機 、  : 練習機 、  : 汎用機






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